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THE IDOLM@STER MILLION LIVE! 1stLIVE HAPPY☆PERFORM@NCE!! に行ってきて、思ったこと。

ミリオン1stライブに行ってきてから完全に頭のなかがアイマスに染まってるのでちょっと書きます。

参戦は2日目だけLVに行って(1日目行かなかったことに死ぬほど後悔しましたが)ライブ全体の感想としては、もう大満足で、出演者の方々が本当に精一杯、最高のステージを作ってきてくれたんだなあってことが伝わってきて。
アイマスのライブ参加はシンデレラのLVに行ったのが初めてで、これで2回めなんですが、アイマスライブってこんなに素晴らしいものなんだなあと改めて実感しました。

なんというか、もうゲーム、アニメ、声優とか、個別のカテゴリをふっ飛ばして、「アイマス」っていうコンテンツのもとに、みんなが集まっている。
あまりにも当たり前のことなんですが、なんというか、その「アイマス」って存在の大きさを見せつけられたというか。

特に今回のライブに関しては、ミリオンが765プロであるってことが本当に強く感じられて。
それはなんというか、とても大変なことだと思うのです、やっぱり。

各所で言われていることだとは思うんですが、アイマスって10年続いてる化け物コンテンツなわけで。
でも、10年続いちゃってるってことは、アイマスというコンテンツが「中の人」の依存度が大きい故に(その点、東方とかボカロとは大きく違いますよね)、どうしても時間の限界っていうのも見えてきてしまって。そんななかで、シンデレラ、ミリオンは、登場当初よりも、時間が経てば立つほど、存在が大きくなら「ざるを得ない」んですよね。

で、正直いってしまうと、ミリオンってシンデレラよりも影が薄かった、と思うんです。それは、シンデレラがソシャゲのサービス的に大成功している中での後発だったということもあると思うんですが、なんというか、キャラクターの強さが、シンデレラ比べると、やっぱり弱かったかなあと。ぶっちゃけ、ゲームちゃんとやってないとよくわからないんですよね、ミリオンのキャラって。

ある程度ゲームプレイし続けてみたり、ドラマCD聞いてみたりすると、むしろものすごく芯の強いキャラクターばっかりだってことがわかるんですが。なんというか、キャラデザのせいもあると思うんですけれど、特にアニマスの765AS組に似てると思うんですよ。言い方が良くないかもしれませんが、ちゃんと「生きてる」キャラクターとして作ってるから、逆にぶっ飛んだ個性(シンデレラの杏みたいな)を持ったキャラがいない。

あ、もちろんだからシンデレラが薄っぺらいなんていうつもりは全くなくて、ただ、ミリオンはやっぱり「あの765プロ」の世界にいても全然違和感が無いキャラとして生まれてきてるんだなあと思うんです。だから、劇場版でも後輩として登場出来た。でも、逆に言うと、「後輩」からのスタートってかなりしんどいんじゃないかなと思うんです。(その点、シンデレラはミリオンよりも自由なんじゃないかと思えます)。

アイマスという世界観の中で、「後輩」というポジションが与えられてしまったミリオンが、今後「主役」となっていくためには、やっぱりそれこそ、「後輩」から「主役」の役割を与えられないときついんじゃないか、と思ってしまって。そしてそれは、現状のサービスだけだとやっぱり限界があるよなあと。シンデレラ以上に、公式からのバックアップが無いと息切れしてしまうんじゃないかとやっぱり思ってしまうんです。今年に入ってから、劇場版、SSA、1stと怒涛の勢いで来ましたが、このまま突っ走っていけるのかなというとやっぱりなんか不安になるっていうのが正直なところで。

なんかネガティブっぽく書いてしまいましたが、ミリオンのキャラクターが(中の人含めて)、僕自身、本当に魅力的だと思っていて。どうにか続いていってほしいなあと、今、強く思っています。絶対に、それだけのポテンシャルを持ってると思うんです。たとえば、据え置き機でゲーム出すのでもいいし、あるいはミリオンのイベントをモチーフにしたアニメ(ミリオンのイベントは映像映えするものがものすごく多いです。アイドルヒーローズとか)とかでもいいかもしれませんが、今後、ミリオンを主役にしたコンテンツが、もっともっと盛り上がっていって欲しい、いまはそんな気持ちでいっぱいです。

なんかものすごくとりとめないかんじで書いてしまいましたが、
ミリオン1stライブ、ほんとうに、素晴らしいライブだったし、ミリオンがとても好きになりました。これからも「応援するよ!」

『中二病でも恋がしたい!戀』 感想(『AURA』もあるよ)

 ああ幸せだ幸せだ。こんなにも優しい世界をみせてくれるなんて。

 

 『中二病でも恋がしたい!戀』は今季のアニメの中で僕が見ていて一番幸せなアニメです。中二病の再肯定を成し遂げた第一期から続いたこの第二期は、じゃあその肯定された生き方のままでどのように幸せに日々を送っていくのか、という(今のところは)微笑ましい試行錯誤を描いています。

 

 そこで、第一期以上にスポットが当てられているのが、周りのクラスメイトたちです。立花の中二病の振る舞いに対しても特に気にせずに付き合ってくれたり、修学旅行で立花と勇太を茶化したりしてくれるクラスメイトたちが、印象的に描かれています。それがやっぱり僕にはとても幸せな光景に見えるし、さらに言えば、これまでの中二病を題材にした作品ではなかなかきちんと描けてこなかったものでもあるのかなと思うんですね。

 

 第一期放送時ですが、『中二病でも恋がしたい!』を見て、ラノベに少し詳しい人ならすぐに思い浮かんだであろう作品があります。『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』というライトノベルです。当時、既に『人類は衰退しました』でラノベ作家としても一定の評価を得ていた田中ロミオが書いたこの作品は、やはり中二病(作中では「妄想戦士」と名付けられていました)を描いていましたが、スクールカーストを題材にしており、まさに中二病の「イタさ」を前面に押し出していました。この作品がすごいのは、その上で、きちんと中二病を救ってあげられているところです。その点、『中二病でも恋がしたい!(第一期)』は、『AURA』の後発でかつ、勇太と立花の設定が『AURA』と完全にかぶっていて、それでいて、立花の中二病の背景として語られるのが家族の死という、かなり個人的な事情(=中二病を立花個人の問題にスケールダウンさせてしまっている)だったということもあり、少なくとも僕の中では『AURA』に比べて「少し物足りないなあ」と思っていたものでした。

 

 その『AURA』のクライマックスシーン、主人公佐藤一郎に向かってヒロイン佐藤良子(もちろん重度の中二病患者です)が叫ぶ言葉があります。以下、引用します。*1

 

「一郎こそ、この世界が楽しいと本気で思っていると?」

「それは」 嘘のつけない質問を投げられた。

「・・・・・・・そうさ。普通の高校生らしさになじめない人間だよ、俺は。けど、こうやって頑張ってんだろ!」

「私は頑張れない」

「何で頑張れないんだよ!」

「狭量だから」

「誰が」

「世界が」

 

 今読み直してみても、ここまでシンプルに、的確に中二病モノの葛藤の本質を突いた言葉を僕は知りません。ロミオ先生まじ凄い。『AURA』はその狭量な世界でも何とか生きていこう、という終わり方を(一応は)します。

 

 翻って、『中二病でも恋がしたい!』は、スクールカーストなんてものは一切描かれません。葛藤しているのはもっぱら中二病な本人たちだけで、周りのクラスメイトは彼らのその過去や現在の振る舞いに対して拒絶をしません。それは第一期からそうでしたし、第二期ではそれがもう少し過剰に描かれています。寛容なのです。世界が。それに対してともすれば批判する向きもあるかもしれません。現実はこんなもんじゃない。甘すぎると。

 

 でも、本当にそうだろうか、とも僕は思うのです。『AURA』の描いていた世界の狭量さは、確かに存在するでしょう。でも、実際にはもう少し世界は寛容なのではないか。中二病でも恋ができるし友だちもできる、自分をちゃんと肯定できさえすれば。そのくらいの寛容さがあふれている世界が僕は幸せだと思うし、そういうのを少しは期待してもいいのではないか。『中二病でも恋がしたい!戀』はそんなふうに思わせてくれるのです。それは一期、つまり『AURA』的な手続きを踏まえたからこそ描けていることであり、そして、『AURA』が描けなかったことを描けているのではないかと僕は思っています。だから、僕はこのアニメを見てとても幸福なのです。そう、自己肯定がちゃんと救われる、この世界が見たかったんだと思わせてくれるから。

 

 

  

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

 

 

 

*1:ちなみに、このシーンに関しては劇場版で花澤香菜さんが本当に素晴らしい演技をしているので、まだ見てない人は是非ともレンタルでもいいので見ていただきたいです。最近見たアニメ映画の中ではダントツで良かったと思っています。

『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』 感想【ネタバレ注意】

 

色々細かい点で気になったことはあるのですが、やっぱり春香さんが素晴らしい映画だったというべきでしょう。というわけで春香さんがいかに素晴らしいかについて書きます。

 

春香さんにとってのアイドルっていうのは、「アイドル」って概念そのものです。

 

恋に恋する,とはよく言いますが、春香さんにとっての「アイドル」っていうのもたぶん、最初、そういうふうに見えると思うんです。

でも、何がヤバイって、それが、奇跡的にずっと崩れずに保持されてしまっていることです。恋に恋するって言葉がいつか現実的な人付き合いの難しさに幻滅するという前提で使われているように、「アイドル」って存在も、実際に自分がその立場になったら自分の想像とのギャップに苦しむはずなんです。春香さんは,他のアイドルと違って,自分の目的のためのアイドルではなく、「アイドル」のためにアイドルになったから。でも、アニマスの春香さんはそうじゃない。どんなにつらい思いをしていても、理想と違う扱いであっても、春香さんにとっての「アイドル」っていうのはずっと揺らいでないように思える。唯一、アニメの最終盤を除いて。

 

そこで、思ったのです。恋に恋する、なんて次元じゃない。きっと、春香さんにとって、「アイドル」という形は最初から決まってなかった。だから、きっと、自分がアイドルになった、そこから、春香さんの「アイドル」の中身というのは作られていったのではないか。春香さんにとって「アイドル」とは理想なんかじゃなかった。ただ、自分の中にその存在だけあって、全肯定すべきもの。だから、揺らぎようがない。春香自身がアイドルであること自体が春香の中の「アイドル」を形にしていっているのだから。そりゃ凡庸な個性なんて出てくるはずがない。春香さんの個性っていうのはつまり「アイドル」であること、それだけなんです。それだけでいいんです。もう、なんなんですか、それ。全く普通じゃないです。

 

アニマスのクライマックス、最終23,24話は、春香さんにとっての初めての挫折が描かれていました。でも、その挫折っていうのは、美希や千早のように、「自分がこうだと思っていたアイドル」への幻滅からくるものじゃありません。春香さんのエピソードがアニメの最終盤に来てる意味は何なのでしょうか。それは、そこまでのエピソードによって、春香さんにとっての「アイドル」が形作られていたからにほかなりません。もちろん、プロデューサーに大怪我をさせてしまったという事実はショッキングでしたが、春香さんの挫折は、それ以上に、それまで春香さんが実際のアイドル活動を通して積み上げてきた「アイドル」が崩れかけてしまったという描かれかたをされていました。だから、春香さんはもう一度自分の中での肯定すべき「アイドル」を見つめなおして、事務所のみんなの力も借りて、復活します。でも、結局、春香さんにとっての「アイドル」は最後まできちんと言葉にはされなかった。

 

そして劇場版でそれは叶いました。春香さんの中の「アイドル」の表明が、アリーナでのあのシーンです。あそこで春香さん、そして765プロのみんなは泣いちゃいます。その涙の理由ってなんだったんでしょうか。多分、フツーに見るとちょっと違和感があるシーンだと思うんですよね。確かに感動的なシーンだったけれど、特に765プロのみんなの反応は、単に春香さんが決断して、可奈を説得できたから、と言うもの以上の、何かがあったと思うんです。それは、きっと、春香さんが自分にとっての「アイドル」を初めて、形に出来た、表明できたことの感動、だったのではないでしょうか。あそこで、春香さんは自分の中で存在だけあった「アイドル」をついに言語化出来たわけです。それは、春香さんが頑張って、頑張って、ついに見つけた、自分自身の表明でもあるわけです。それが深い感動を生んでいる。それだけで、この劇場版は素晴らしい、と手放しに褒めてもいいと思います。だって、(僕はゲームをやっていませんが)ゲームの頃から延々と春香さんをある意味で縛っていた、「アイドル」であることに、きちんと答えを与えてくれたのですから。